宗教指導者

 宗教は安寧を願う心を作り上げるものだ。宗教は原始的な自然崇拝の時期を経て、権力者が台頭してきたころ虐げられた人民の要望を根底に持って出て来たものだ。

 宗教の根本精神はそうであっても何千もの違った考え方や方法があり、それぞれ自分が信じる宗教を最善で他は邪教とする考えがどこかに存在するようだ。

 それが他宗を排斥する行為となり、過去幾多の残虐行為も行われた。理論上地位の上下がないとされているが、実際には階層的に上下関係が存在し、下の地位の宗教家は上の地位の人を尊敬し、逆もそうである。

 日本でも僧侶が武器を持ち、時の権力者と戦争を行ったし、キリスト教でも異端として他宗を信奉する人を迫害し、そして火あぶりの刑にも処した。

 どうして心の安寧を求める人、それもその最高の指導者がそんな行為を行うのか疑問である。

 間違った言い伝えもあるとは言え、キリスト教の上部の人は他宗教を奉じる人を悪魔などと称して異端審問裁判を行った。そして異端とされた人は処刑された。

 処刑方法は今の死刑とは違い、火あぶりなど残酷なものだ。見せしめの目的もあるだろうが、心の安寧を願い、自己も実行している人間がどうしたことだろうか。

 イスラム教では今も最高指導者が戦争も辞さないような考え方をしている。本来の宗教の考え方からすると、そんな人間は破門されるはずだが、厳然と精力を保ち、そして優雅が生活をしている。

 そんな面を考慮するととても宗教を奉じ、それに殉じるような活動をすることなど及びも付かない。

 敬虔な教徒はそんな歴史や現状をどのように捉えているのか。一般の人より心の安寧を願う心が薄く、残虐な感じがしてならない。

 日本でもは富裕で立派な家系出身者でなければ入学できないクリスチャン系の大学は今でもある。彼らには平等という考えがないのか。それとも似非クリスチャンなのだろうか。

 宗教の最高指導者の元には無税の金が集まる。対外的には自由、平等、博愛などと称しているが、そこには自由も平等も博愛もない。

 宗教団体は外から見ると権力団体なのだ。どうしてそうなったのか。キリスト、釈迦、マホメッドは共に裕福な家族の出で、キリストもそうであろう。

 彼らは満ち足りた生活すなわち退屈な日常に心を満たされず、さらなる心の奥を探訪したかったのだ。

 心は考えれば考えるほど分からなくなる。今に至るまで心とは何であるかを完全に説明できる人はいない。

 それを求めて宗教の創始者たちは日夜頭を使い、悩んだ。本当に心が何であるかを悟ったかどうかは知らないけれど、日夜非常な努力をして考え抜いたに違いない。

 それぞれが違う方向からアプローチしたので、それらの教義は違って当たり前だ。彼らや彼らの直接の後継者はそれなりの高い品格を有していたと思われる。

 だが創始者が入滅してその直接の教えが曖昧になってきたころ、権力者が生れ、あたかも創始者の後継者のように振舞うようになった。

 ここに人間の悲しさがある。人は善と悪の両方の性質を持つ。創始者たちは善の心を全うしたが、それは難しく、後継者たちはより簡単な悪の心も表すようになったのだろう。

 祈りを捧げるのは善の心を呼び覚ますが、単なる読経するだけで、心が籠っていなければつい悪が芽生える。

 信徒を拡大する時もどこかで悪の心があったはずで、善だけでは生活はしていけないのが人間社会である。

 権力は大勢の人が団体になったところで発生する。こうして宗教の最高指導者は悪に染まってゆく。

酒巻 修平

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