週刊誌をやめたら、こんなに幸せ

 最近一般の週刊誌を読む気がしない。第一いくばくの金が掛かるし、書いてある内容は読まなくてもタイトルだけで充分だ。

それらはほとんどがフィクションまがいのもので、そういうつもりで読むなら良いだろうが、それならもう少し本式のフィクションを読む方が良い。

昨日だったが掲題のような記事が出ていた。葬式や結婚式には出るな。本家など意味がないから行くな。自分の墓も要らない。友には感謝してさよならせよ。

中元、お歳暮、年賀状は廃止せよ。人間ドックには掛かるな。子に財産を残すなど考えるな。見栄を張るな。

確かにそんなことを全てなくせば、気が楽であるし、余計な金は使わなくて済む。でもそんなことを全て実行した人はどのように日々生活をしていけば良いのか、その週刊誌には対処法を伝授しているのだろうか。

生物とは子孫を残すために生きている。生きていないと子孫が残せない。だから鳥などは一時日中餌をついばんでいる。死んでしまうと子孫が残せないからだ。

犬や猫もそんな側面があるだろう。しかしこの程度の高等動物になると脳がかなり発達している。だから遊びや喜び、悲しみの感情などが芽生えている。

人間に進化した我々はそれらの動物とは違い、脳が極端に大きくなり機能も特に優れている。

犬猫にはない笑い、思考、諍いなどは人に特有の脳の使用法である。だから純分な衣食住があるだけでは満足できないし、心は空虚である。空しい。いっそ自殺をしたいと考えてしまう。すなわち人は脳を遊ばせるためにも生きているのだ。

上記週刊誌は社会生活を全て止めてしまえと言っているのと同じだ。友達もいない。コミュニケーションは取らない。そうであればどのような自分の脳を使用するのか。全く使用しないで、昔の坊主のように振舞うのか。

私も長年生きていて、種々の苦労やトラブルを経験した。小さな飛行機事故にも遭遇した。それらを今思い出すとつい「ふふふ」と笑いが込み上げてくる。

そういうことは自分が生きてきた印であるし、思い出は一つの心の清浄剤とも言える。過去がなければ自分には何があるのか。

あるアメリカ人が言った。トラブルはその時には苦難であるが、それを乗り越えると楽しいあるいは面白い思い出として記憶される。

聞いた時はそんなものか。自分はトラブルがないからそんな暢気なことを言っているのだろうと思ったが、今になって考えるとそのアメリカ人の言は誠に当を得ていると感心している。

その週刊誌の記者に問いたい。ではあなたは生きて行くだけの金を親から残されたら、それを使って誰とも会わず、人とは交際しないで生きて行くのかと。

記者は自分がそういうことを望んで書いているのではないのを物語っている。発行部数を稼ぐために誰も言わないことをただ書いているだけだろう。

それは空虚で記事を読んだ人も実行するとは思えない。ただそこには文字の無意味な羅列があり、従ってこの週刊誌は世の中に存在する意味のないものだと思ってしまう。

週刊誌であるからこれはマスメディアの一種だろう。最近朝日新聞を筆頭としてメディアの質が大きく低下した。記者たちは真剣に情報を探し、読者や視聴者にその情報を正確に伝えてもらいたい。

だが違う。彼らの頭の中には発行部数、視聴率があるだけで記事の質など気にする記者はいない。単に人目を引き、金に結び付けることだけを考えている。

嘘を書き、適当なことを言う。そんな職業に付いている人は人として劣等だと思われても仕方がない。

自分の記事が社会の道しるべになるなどの気概がないのだろう。そういえば記者会見の発言を聞いていても当を得ていない、突っ込みが足りない。もう答えられたことの確認をするだけの輩がだらけだ。

もう少し自分の職業にプライドを持ち、読者がうーんと唸るような記事を物しないものだろうか。

酒巻 修平

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です