心とは何か

 生物と非生物を区別する定義は何であろうか。種々の側面から考察できるだろうし、そうであれば定義も一つではないだろう。

 自然に抵抗する系であるとか、自立して動作することができるとか、それほど生物とは不思議な存在で地球以外に生物はいない可能性もある。

 全宇宙に惑星(星は温度が高すぎて生物が存在しえない)の数が幾つあるのか概算の計算でしか語れないが、それほど多くの惑星があるだろう。

 一方生物が存在し得る確率を考えるとそれも天文学的な少なさだ。太陽と地球との距離、自転軸の傾き、水、電気の存在、あるいは月や隣の惑星との距離、炭素、窒素が地球上にあることなどなど、生物が存在できる要素が無限に近いほど多い。

 生物が存在できる確率と惑星の数を比較して惑星の数の方が多いなら、他の天体にも生物が発生し綿々と存在している確率があるだろう。

 我々はそんな確率を信じたいが、多くはないだろう。まして高等動物が生を保っているのはそれこそ神のなせる業かも知れない。

 それに太陽は何時までも存在できるわけではない。後何十億年かの命で、太陽の命が果てる時、地球上の命も死に絶える。悲しいが事実だ。

 生物が生を連綿と保っているのは何等かの方法による生殖活動で子孫を残せるからだ。自然物と生物の違いはそのようなことでも説明することができるだろう。

 生物とは子孫を残す系であるという定義はここからもきる。下等生物がどのように子孫を残すか極めて説明でき難いが、少なくても動物は雄と雌の生殖活動が新な生をもたらすのは見ての通りだ。

 生殖活動をするには自分自身が生を保持しなければならない。死んだ生物はもう生物ではなく自然物であるからだ。

 動物が生命を保つには幾つかの条件が必要だ。エネルギーの生成はその一つで、それには酸素などの化学物質、食料の確保が欠かせない。

 酸素などの化学物質はどこにでもあり、その摂取は造作のないことだが、食物の確保はそうはいかない。だから動物の生きる目的は食料を確保することであるとも言える。

 なんとも哀れのことであるが、これが動物として生まれた宿命である。だが人は違う。幸か不幸か脳が異常に発達してしまった。

 人の脳は食物を探し食べるためだけには大き過ぎ、精密過ぎる。食物の摂取のためだけを考えると人は脳の何百分の一しか使用していない。

 他の部分は何に使用しているのであろうか。それが人を幸せな気持ちにさせ、また絶望感に襲わせる元である。

 人の脳には核がある。それは父と母からもたらされたものだが、父と母に脳も更に両親から与えられた。そうすると脳には先祖代々の脳がいまだに存在していることになる。

 それが人の個性であり、心の元にないなる最重要部分だ。カントはそれをア・プリオリなどと説明したが、人は生殖が開始した時点でこのア・プリオリを持っているのだ。

 次に考えなければならないのは情報の取得を司る部分である。その一部は海馬と呼ばれているが、この海馬が収集した情報をア・プリオリに付け加えられそれは生きている限り続く。

 心とは原始のア・プリオリに自分自身が獲得してそこに情報を集積させた総体のことである。

 だから一卵性双生児でもある時期を過ぎると心も変化する。体が接する部分が多少違うので、皮膚感覚などに相違が出て来るのだ。

 母の優しさ、父の厳しさ、学校教育、友達、自然の風景、それら脳に情報として入ってくる全てが心に付加され、幼児、子供、少年、青年、大人、壮年、老人と心は絶えず深く大きくなってくる。

 それが悪く変化することのないよう心掛けなければならない。そのためには美しい物を見、醜い心に接しないよう自分自身の行動を律しなければならない。原子の心は父母からもらったものだが、その心を豊かに育むのは自分の使命である。

酒巻 修平

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