キリスト教七つの大罪

 現在世界の政治経済を動かしているのは主としてキリスト教を国民の多くが信奉している国である。そこでも数多の宗教があるが、政治家はどうもキリスト教の教えをどこか頭の中に入れているように思われる。

 

 だからハリウッド映画もキリスト教の観点を無視して作られるものは少ない。昔「セブン」というブラッド・ピット主演の映画が製作され、最近テレビでも再放映された。

 セブンはキリスト教で忌み嫌われ罪(宗教上の)とされている七つの大きな罪を主題に取った映画だ。とても面白くさすがに昔のハリウッドの作家の構想力はたいしたものだと感服した。

 その七つの罪は高慢、物欲。嫉妬、怒り、色欲、貪食、怠惰だとされる。しかしその罪を見てみると普通の人が普通に持つ精神の在り方だ。とくに色欲がなくなれば人類は絶滅してしまう。私は罪の種類の前に「過度な」という言葉を置いたらどうかと思うのだが、どうだろうか。

 若いうちは高慢くらいでないと大きな仕事はできない。物欲がなければ企業を起こせない。嫉妬、怒り、怠惰がないと精神病患者ではない全ての人が持っている感情だ。貪食など最近のグルメを象徴するような行為である。

 そうすると宗教は人の楽しみを全て奪い、善良な人が普通に持つ精神を否定している。現在のローマ法王も7つの大罪とされるものの1つや2つは持っていると睨んでいる。

 だが人の欲望や精神状態の悪い面を考察するには面白い発想だと思う。人は生まれつき二面性を持っているので、これらの大罪の反対側には7つの大徳があるだろう。

 謙虚、節約、宥恕、和心、節操、節食、勤勉。それらは7つの大罪と同時に一人の人間が持ち合わせるものだ。

 これを模してマハトマ・ガンディーは「7つの社会的罪として次の七つを指摘した。理念なき政治、労働なき富、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき信仰である。

これは宗教上の大罪と比べて脱個人的である。すなわち社会的罪は他の人々に大きな影響を及ぼし、被害が大きい。

 理念なき政治など中国や韓国に見られる現象だ。日本の政治家にも理念(国民の安寧を祈念すべき)があるとは到底言えない。自己の利益のためだけに政治家になった人物が如何に多いか。

 労働なき富は今や大きな世界的問題になっている。極めて少数(人か3人とか)の人が世界の富を労働なくして独占し、役立てるということはほぼない。良心なき快楽はどこにでも見られ、傍にいる人の顰蹙を買う。人格なき学識はノーベル賞を含む学者社会の閉そく性に見られる。

 道徳なき商業。企業家に道徳が果たしてあるのだろうか。企業に利益をもたらすために平気で法律を破る。人間性なき科学は新兵器の開発に見られるし、献身なき信仰はキリスト教系の大学の入学要項に普遍的に見られる。坊主まる儲けなどは江戸時代からの伝統だ。

 だがこれらの社会的大罪も分析してみれば宗教上の罪の社会的具現化の産物であることが見て取れる。人には良い面と悪い面の両面がある筈だが良い面を出すのは苦痛であることも多いと言えるのだろう。

 だが良い面を出すのが苦痛の方向に向かうことであるが、同時に精神的快楽も付いてくる。人に親切にすればその後は清々しい気持になるのは誰もが経験していることだろう。

 そう考えると社会的な大罪は幸せになるための反面教師的な役割を果たすかも知れない。まだ歴史に名を留めるココシャネルは孤独をいつも感じていたらしく幸せだったとは言い難い。まして旧ソ連のスターリンは晩年暗殺されることを怖れて部屋に籠り放しであったと伝えられている。これこそ不幸そのものだ。

 幸せの定義は色々あろうが、困難ではない経済力があり、友人や家族との諍いが少なく、生涯夢があることだろう。

 すなわち平凡な生活を送っている人が一番幸せなのだ。7つの大罪の幾つかを犯すのもまた幸せと言うと言い過ぎだろうか。日本人のほとんどの人は幸せだと思う。

酒巻 修平

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