インドネシアの思い出

 インドネシアの所謂9月30日事件と言われるクーデター未遂事件が起こったのは1965年のことである。そのころにはもう大学を卒業して就職をしていた私がどうしてそんな時期にインドネシアに行ったのか今は定かではない。

 私がジャカルタに行ったのは10月に入って少し経ったころだと思うが、まだインドネシアの政情は不安定であった。だからそんな時に私がインドネシアに行く理由が今ではさっぱり分からない。

 私は大学でインドネシア語を勉強したが、理由は中学の英語の先生に勧められたからだ。先生曰く「これから日本はインドネシアに賠償を支払うので、インドネシア語を習っておけば何かの役にはきっと立つ」。

 そんな先生の言葉を信じたが、今に至るまでインドネシア語はほとんど使わず、役に立ったことは全くない。それから何十年かして、マレーシアに行った時にタクシーに乗り、英語の分からない運転手にインドネシア語を話したくらいだ。

 その時運転手は日本人と思しき私がインドネシア語(マレーシア語とほとんど同じ)を話したのでいたく感激して褒められた。それが唯一の使用経験だ。

 今インドネシアは下請け国として大いに発展しているが、私が大学を出たころは全くの貧乏国で、各人の能力も低く、我々はインドネシアという国は永遠に豊かにはなれないと高を括っていた。

 その予想は大いに外れ、経済発展を遂げたインドネシアは私をあざ笑うように新幹線の建設などを行い、国力旺盛である。だが日本にかなり援助をしてもらった割には新幹線の建設では中国に発注して失敗するなど、狡賢いところも見せる。隔世の感とはこのことだ。

 さて私が行った時はクーデター失敗の直後でホテルから外に出ない方が良いと言われていたのだが、若い私は怖い物知らず。夕方ころついぶらぶらと散歩に出かけた。

 ホテルの食事は高いし、それに飽きたということも手伝って、歩きながら食堂というかレストランというか食事を出してくれる店を探した。町は事件の後だからだろうか、人も疎らで静まりかえって食堂など見当たらない。

ところがしばらく歩いていると丁度恰好の食堂が開いていたので、入ることにした。中には客があまりいない。どの席に座ろうかと迷っていると、どうも後ろの方から私に向かって声を掛けている人物がいる。

 不気味に思い返事もしないし、そちらの方にも顔を向けなかった。と、どうも「さかまき」という声がするように思える。それでも聞き違えと断じて振り向かなかった。そうするともう少し大きな声で「さかまき」と聞こえるではないか。

 初めてくるジャカルタで知己などいるはずもないし、当惑しながらもそちらの方を向くと、何と大学でインドネシア語を習った先生が悠然と食事をしていたのだ。

 驚くやら奇遇を喜ぶやら、私は先生のいる席に座って、お互いになぜこんなところに居るのか交互に質問し、それから話が弾んだ。

 その先生は私の試験に単位が取れるぎりぎりの点を付けたので、それを面白がって話すと、先生は「いや、あんたは良くできたからそんな点を付けたのは覚えていない」とお世辞とも真実とも紛らわしいことを言う。

 でも考えれば仕方のないことだった。一年に前期、後期と二回ある試験の前期は病気の所為にして受けなかったからだ。そのように久闊を叙したがそれ以降その先生とは会うこともなく年月は過ぎた。

 韓国、中国などは昔下請け国であった。韓国は日本の技術指導、中国は他国の技術を盗んで下請け国を脱してもやっていける力を付けたが、他国の技術の継承だけでは心元ない。自国独自の技術の開発がなければ厳しい世界競争には参加できないと思われる。

 今のインドネシアの政策を知ることに興味がないが、インドネシア人が経済のリーダーではないだろう。多分華僑勢力が引っ張る構造になっていると思う。

 そしてお定まりに賃金上昇で下請け国としてはやっていけない時期が必ずくる。その時に備えてせめて生産技術を磨く体制を作らないと国民が貧困に再び陥るのは目に見えている。

先生との思わぬ再開の場面を思い出してみたが、まだ存命だろうか。こちらも相当な年配。気に掛かる。

酒巻 修平

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