東大卒社員の仕事振り

 28歳で我が社に入社試験を受けに来たこの東大卒の男性は3回も外交官試験を受けて失敗した。私はそれまで東大卒とは仕事を一緒にしたことがないので、興味半分で採用した。

 後から分かったことだが彼は100枚ほども履歴書を書き、会社の面接試験を受けたがことごとく駄目で、我が社に採用された時これは夢なのかと現実が認識できないほどだったらしい。

 千葉から通っていて、遅刻などは全くない。善人そのものの男性で私には好感が持てた。字は上手でも下手でもない。だが電話を通じての会話は苦手らしく、たどたどしい。

 東大の入試には国語がある筈だが、入試と実際の国語力とは全く違うものらしく、文章も上手ではない。人は全て自分を基準に物を考えるが、この人もそうで、人は約束を必ず守ると信じて疑わない。

 ある時こんなことがあった。我が社は輸入を専門にするミニ商社だったが、仕事の関係で通関業者に連絡することが多い。この時も私が何か小さいことを頼み、彼は業者にそのことに関する質問を何か投げ掛けた。

 彼はまだ新入社員であったから経験は全くない。会社の仕事に対する前歴は当然皆無だ。だから慣れるまでは小さな仕事しか任せられない。私が依頼したことは小さなことだったので、私も忘れてしまったが3日ほど経って彼からもたらすだろう情報を元に仕事をしなければならないことが発生した。

 彼に依頼したことの返事がまだないのかと聞いたところ、「頼んであるし、相手も連絡すると約束してくれたから必ず返事は来ます」とのこと。ちょっと調べれば分る簡単なことなので、それはおかしいと思い、「相手は忘れているか、あまり真剣に考えなかったのだろう」と私も経験上そんな反論をした。

 そこで彼は相手に電話をしてことの成り行きを聞いた。すると相手は多分「すみません。すぐやります」くらいのことを言ったのだろうと言ったのだろう。ところが東大出の彼はそんな不誠実なことは許せないと思ったのだろうか、「馬鹿野郎」と大きな声で怒った。

 私が「まあまあ、人は忘れることもあるよ」と言っても相手を許さない。後でその相手と話す機会があった時、「すごく叱られて怖かった。あの人はどういう人ですか」との質問を受けたくらいだ。

 英語はまあまあ。文章もまともだし、相手にも理解される。だからもっぱら英語でのコミュニケーションを担当させた。でも肝心で重要なことを交渉させるとどうも相手ペースに交渉が推移する。結局そんな場面では私が出て行かなくてはならないことになるのだ。

 当時私も若く、その彼は面白い(私には)人物だったので、よく一緒に飲みに行った。酒場は今と違ってどこも満員なのだが、行きつけの酒場が融通を聞かせてくれて席は確保できる。

 酒が入ると彼は歌を歌って良いかと上司の私に許可を求める。私もある程度酔っているから面白がって歌を歌わせた。すると「鉄道唱歌」の1番から66番全てを暗記していて歌った。まる20分周りの人も私もこれには驚いた。

 こんなこともあった。忠臣蔵という物語の最初の部分の行に「刃傷松の廊下」というセリフがある。これは30分。これも全て暗記して朗々と語るのだった。すなわち記憶力抜群の人物だった。

 彼の愛読書はエマヌエル・カントの「純粋理性批判」。さすが東大出だから難しい本を読んでいるなと感心したが、あまりその本のことが話題に上るので、私も読んでみた。

 内容をは晴らしいのだが、ま、大脳生理学を300年前に論理的に書き表した哲学書である。ところが彼は内容が言わんとしていることを理解していない。全て文章として暗記しているのだ。

 そんなことがあって、彼は給料分を稼ぐ仕事ができない。周りから会社の金を役に立たない人に使って良いのかという反感が起こった。私も世論には弱い。仕方なく彼に「あなたは商業には向いていない」と言って会社を辞めるように勧告した。

 その時に彼が困ると気の毒なので、「面接した会社から問い合わせがあると必ず推薦するよ」と約束した。それから3年間、絶えず彼から入社試験を受けた会社から問い合わせがくるだろうから、その時はよろしくと言ってきた。

 しかし問い合わせはついに来ず、最終的に就職した会社は清掃会社で、彼はその監督とのこと。でも彼は単なる清掃員だろうと想像した。因みに彼の人生での夢は結婚することだった。

 今考えると彼を救ってやれなかった私も実力不足だし、人情味がなかったと反省している。

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