歌の心をたずぬれば

 時々昔の歌を聞く。歌手は上手く、詩には味わいがあった。それが小室哲哉のころからコンピューターによる作曲が主流を占めてしまってからは興味がなくなった。

 弦哲也という作曲家は「津軽海峡冬景色」という歌謡曲の作曲をしたと記憶しているが、その彼が作る最近の曲は元歌を基本にしてコンピューターによって少しずつ変化させたものに過ぎない。

 だから最近では大きなヒット曲が出ない。ご存じの通りコンピューターは人によって動かされるものだ。だからコンピューターによる作曲はどの曲を聞いても変り映えがしない。

 これでは歌手も可哀想だ。そこには芸術品を作るという心はなく、ただ金儲けの手法があるだけだ。小室はそう言う意味では日本の歌謡史を破壊してしまった犯人である。

 芸術には妥協があってはいけないし、絵の世界では金儲けのために書いた絵は「売り絵」として最下級のレベルと位置付けられる。小室や玄はその部類のレベルに落ちた哀れな職業人である。

 さて歌の心とは何であろうか。歌は何を歌おうとしているのか。今も昔も変わらずそれはほとんどが「恋」をテーマにしている。恋の始まりとその終りを歌に託しているのだ。

 今、人に恋していると歌にしていても、そこには別れの予感がある。そう、恋は短く儚いものなのだ。だが恋が長続きすれば人生の機微はないし、味気がないものになるだろう。

 恋が頂点に達すると結婚という結果をもたらす。それが恋の終焉だ。結婚した二人に愛が芽生えると、幸せが訪れる。恋は動的で愛は静的なのだ。二つは全く違う行為で、それらを司る脳の部分は違う。恋は本能から来るし、愛は知性を必要とする。

 人の生殖行為は本能で恋が原動力になる。だが恋が男に持続する期間は短く、それが過ぎると妻は触れられる機会が少なくなり、不満が溜る。

 歌はそんな短い恋の期間の心情や出来事を歌うものだ。それほど恋というものが人の心を揺さぶる。だがそれは当たり前だ。人を含む動物がすることは子孫を増やすことだからだ。

 生物は自己複製をする系と定義できる。自然に抗して動くとか他にも定義のしようがあるが、それらは全て副次的な要素である。自己複製をするためには自己の生命を保たなければならないことからきているに過ぎない。

 生命を維持するために動物は食物を摂取するし、危険から身を守る本能がある。すなわち基本的本能は自己複製であり、それを達成するための自己の生命を守る本能は第二の本能で、これは自己複製本能より低い次元にある。

 人は幸か不幸か頭脳が他の動物より高度に発達した。だから恋という現象は本能は形を整えて生れたものだ。だがそれは本能のなせる業ではあるが、発達した脳と密接な関係がある。他の動物には恋はない。

 結婚制度は昔から変わってきた。今の形になったのはいつからか調べてみないが、一応江戸時代にはあったようだ。平安時代は妻問婚が上流の社会で成立していた結婚方式だが、案外それが人という生物のありようを考えれば一番適当な制度とも言えそうだ。

 男は浮気をする。これも本能と恋に関連した行為だ。だがここでも浮気の期間は短い。妻が我慢をすれば夫は必ず妻の元に帰ってくる。それが恋の宿命だ。妻には発生しない愛が浮気相手と芽生えた時、夫は妻を見捨てるだろう。逆も真だ。

 今は金が社会で大きい意味をなす。だから離婚は夫の浮気だけが原因ではない。種々の要因があるが、やはり違う女に男が恋をしたのが切っ掛けだろう。

 恋には理屈がないが、愛にはある。理屈がない世界には相手が美しいとか優しいなどの理由が存在しない。恋は突然やってきて、人の心をかき乱し、そしてすぐに去ってゆく。

 その儚さや偶然性など人生のひと時を彩る行為は歌の対象として恰好のものだ。歌は恋を歌う。それは甘く悲しい。それが人生の生き写しとも言えるではないか。人生も美しくそして短い。せめて恋をしているように人生を生きたい。

酒巻 修平

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