トラブルを楽しむ
人として生まれてどれだけのトラブルに巻き込まれるのか。人は幸か不幸か他の動物に比較して極めて優秀な頭脳を持って生まれた。
これがトラブルを起こすのだ。言ってみればトラブルとは他者との間の精神の行き違いとも言える。
また物理的なトラブルもある。交通事故、盗難、物の紛失などなど有形無形のトラブルを数えれば切りがない。
昨日を振り返ってみてもトラブルがなかったとは言えない。挨拶をしない隣人との遭遇、食べ過ぎによる肥満、電車の乗り違え。
大抵は人生を左右するほどのことはないが、それでもトラブルはトラブルだ。人生はトラブルを解決する為にあるような気がしてならない。
病気がトラブルとすれば私は喘息という持病を持って生まれた。それは今でも体の中に巣くっているが、症状は医者に行くなりして解決をした。
人生はトラブルとの戦いの中にある。会社を経営するとトラブルは倍増どころか10倍くらいになる。
だからいつのころか私はトラブルというものはいつでも起こる。その前提で生きるべきだと考えるようになった。
あるアメリカ人が言った。「トラブルはその時は心を悩ますが解決してしばらくするとそれが面白い経験として振り返ることができる」と。蓋し名言だ。
ある朝経理の担当者の手違いで手形を落とす金額が300万円ほど足りなかった。聞いた時は青くなった。
手形が落とせないと会社は即座に倒産に繋がる。その日私はどのようにしてお金を工面したか思えていない。不思議だが事実だ。
それが今振り返ると他人にもエピソードとして話せる。聞いた人は誰もがどのようにしてお金を作ったのか知りたがるがどうも思い出せない。トラブルが精神に大きなショックを与えた反動でその解決法は記憶から去ったのだろう。
裏切りはしょっちゅうだ。相当こちらが援助をして助けたのに、簡単に裏切る人がいる。
その時はとても腹立たしいが、裏切る人は弱い人だと定義してからは裏切られてもまたかと思うくらいにこのトラブルは私の中で小さくなった。実際その人が裏切ったとしてもこちらの対応の仕方で死活を左右するほどのことはない。確かにその人は弱いから大して影響がこちらにはない。
「五体不満足」という本を書いた人がいたが、彼は「五体不満足」であるが故に、大きな金を得た。これもトラブルを成功裏に解決した例だろう。
自分もある程度年齢を重ねてきたので、人生を振り返ることがある。思い出すのは成功したことではなく、トラブルに巻き込まれ、解決したことばかりだ。
それは甘い感触とともにやって来て何だか心を豊かにしてくれる。半年ほど前長年付き合っていた人と交際を断った。
その影響は勿論あるが、今そうしたことで私の新しい人生が開けつつあるように思えてならない。
だがトラブルはある程度起こさなければならない。私の弁護士がいみじくも言った。「私たち弁護士のところに全く来ない人は真剣に生きていない人だ」と。
確かにそうだろう。何かを懸命にやるとつい行き過ぎて精神が疎かになり、相手の所為だけでなく、こちらの理由もあってトラブルに発展することもある。
自分だけで何ともならなくても今は公平な裁判制度があるから、こちらの意見、言い分を聞いてくれる。政府も良い制度を作ってくれたと感謝する。
もちろん裁判では負けたり、勝ったりその時の状況によるが、負けると自分に非があると反省することにしている。
だけど人生はトラブルだけではない。友達がなければこんな豊かの人生を歩けなかっただろうし、お金を出して幸せな思いをしたことも度々。結局弁護士の言うようにトラブルは解決したら良いのだ。怖れることはない。解決方法は必ずある。
酒巻 修平