ある書家
その人とは50年近くお付き合いをしてもらっている。私が社会人になって7,8年の時に会社の仕事を通じて知り合った。
そのころは印鑑や印刷の会社を経営しておられ、私が担当をして取引をしていた。嫌な顔や怒った顔を一切見せない人だった。
私がその会社を退職して自身の会社を興して、取引は継続していった。その人は現在純粋な書家として活躍されていて、80歳記念の個展を開かれた時に招待してもらった。
私は隷書が好きで、会社の印刷物には多く使ったが、それよりもその人が手書きしたものを封筒の会社名、住所などには使っていた。
名刺には隷書を使わなかったが、その人の勧めで宋調という書体で作ったりした。
でも今はその宋調を使って名刺を作ってくれる印刷屋がほとんどなくなり、がっかりとしていたところその人に相談して、やっとその書体で名刺を作った。
そんなやり取りの中で、その人はとても含蓄のあることを言われるので、一つ紹介してみたい。
博物館などには中国の古典の書が残されている。日本の書家のものもあるが、どこか違うし中国のものの方が格調高いと感じていた。
やはり日本の書は中国のイミテーションでしかないのかとがっかりしたのを思い出す。
そんなことを偉そうに言う私の書は私より下手な人がいないくらい下手だ。ボールペンではそうでもないので、筆で書く書とボールペンで書くのとは違う才能を使うのかと、これまた面白い。
中国人がどうしてそんなに書に造詣が深いのかその人に聞いてみた。その人曰く、元々中国人と日本人は体も頭脳も出来が異なるとのこと。
中国人の体の動きや心のあり方が書に向いていたので、漢字という書が出来上がったのだそうだ。まず書がありきではなく、まず体と心ありきなのだそうだ。
だから体や心が中国人のようにならない限り、いつまで経っても日本人は書で中国人を超えられない。
筆の持ち方一つにも違いがあるそうだ。日本人は大筆を使う時、親指と人差し指/中指を使うが、中国人は親指と後4本の指を全て使う人が多いのだとか。
日本人もそれを真似るが、どうも上手くいかない。どうしても最初の持ち方に戻ってしまう。
それが腕や手のひら、指の構造の微妙な違いだろう。
こういうことは先祖代々受け継がれてきた遺伝子によるものだろう。そうであれば中国人を手本とした持ち方は日本人には無理がある。
ただひらがなは中国にないし、もし仮に後で中国で作ったとしても日本人の方が上手いような気がする。
そこから頭が文学に飛んで、江戸時代と明治の文学を比べてみた。江戸時代の文学は日本古来の物で、江戸以降は欧米の文学を手本としている。
だから今日本の文学は欧米の物と比較した見劣りがする。夏目漱石は十返舎一九と比べて落ちる。
絶えず江戸の文学に帰れと諭し、自らも努力した作家もいたが、意思は叶えられなかった。
日本芸術が危ない。最近着物の柄も良くないし、伝統歌謡も頂けない。上記の中国の芸術は独裁主義が蔓延ってからもう見る影もない。
欧米のイミテーションが世界各国氾濫していて、日本でも小学校から英語を学校で教えると言う。
英語を話すと便利ではあるが、日本の伝統の良さを全て打ち壊すのではないか。現在、便利さだけが優先されていて、美を忘れている。これで良いのだろうか。
酒巻 修平