「可哀そうね」は止めよう

親切や労わる言葉が却って相手を傷付けることがある。いや多い。この「可哀そうね」がその一例だ。

分かり易い例が体に異常を持って生まれてきたことに関することだ。子供の親はその子の育成に最大限の努力をしている。

部外者はその努力の大きさや過程を知らないで労わって掛けているつもりの言葉が聞かされた親に大きな不快感を与えている。

「あら奥様、おたくのぼっちゃん、大学落ちられたのですってね。可哀そうね」となると嫌味なのか喜んでいるのか、それとも本当に可哀そうに思っているのか分からない。

逆に祝ってくれるのは良い。「あらおたくのぼっちゃん優秀でいらっしゃるのね。東京大学に合格されたなんて」

「えっ、医学部なんですか。学費が掛かって大変ですね」この辺から話しがおかしくなる。

家の経済状態がそう良いわけではないのくを知っていて大変と言っていると勘繰りたくなるが、多分そうだろう。やっかみが半分入っている。

人の不幸は蜜の味と言うが、「可哀そうね」はそんな味が混ざっているのだろうか。アメリカ人にはこれがないように思える。

「可哀そうね」は英語で「I’m sorry」くらいだろうが、これは本当に可哀そうと同情しているのだ。アメリカ人は全てにストレートだが、日本人には捻りがある。

これは歴史の長さの違いだ。文化が爛熟すると言葉にも色々なバリエーションが生れこの「可哀そうね」が誕生したのだ。

全く他意がない場合も相手を傷つけることがある。盲目の人に「目の不自由な人」と言えと厚生労働省辺りが指導したのであろうが、これは盲目の人を傷つける。

私には盲目の知り合いがいるが、いつかその人と話した時、今まで通り「めくら」と言ってもらった方がよっぽど良いと言われた。

それから私はその人をめくらと言ったが、聞いた回りの人は何と失礼な人だと非難するように私を見た。でも目くらは「目が暗い」であって元々はそんなに見下した言葉ではなかったはずだ。

江戸時代めくらは体の単なる状態で男、女、背が高い、低いなどと同列だった。盲目の人には位があり、検校が最高峰で時代劇でおなじみの座頭市の座頭も位の一つであった。

言葉は話す人と聞く人は違う解釈をすることが多い。感性、学歴、職歴、家柄、知能レベル、経済状態、容姿、現状、男女差などで言い方聞き方が異なってくる。

誉め言葉が馬鹿にした言葉になることも多いのは当然で、不細工の女性に綺麗などと言えば馬鹿にしていると取られる。褒める言葉が一概に相手に好感を与えるとは限らない。

少し前までは男性の使う言葉と女性の使う言葉は違っていたが、今はそれらがだんだん接近してきている。

人の幸不幸や出世など生活の根幹を成す状態に多大な影響を与えるのが言葉だ。どんなに誠実な人も思っていること考えていることの全てを言葉にしてはいけないのは当然だ。

だが話すべき時に沈黙しているのも良くない。黙っていると義務を放棄したとも思われてしまうし、失礼な人だと反感を買うこともある。

雄弁は銀で、沈黙は金であると言ってもそれは昔の話。今は自分の考えていることを相手に好感を持たれる話し方で表現することが望まれる。

権利の要求も多い。ただ言葉は人生を左右することが多いので、くれぐれも相手に好感を持たれるように留意しなければならないだろう。

こう考えると「可哀そうね」は決して良質な言葉ではないのが分かる。そのように発言する人も言葉を上手に使っていないので、能力以上の生活をできない。

そのように言葉とは難しい意思伝達用具であるが、あまり意識し過ぎると何も話せなくなる。ではどうしろと言うのだ。

酒巻 修平

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