照ノ富士も初日から勝ちっぱなし

私は最近メディアのレベルの低さを嘆いている。下記文章は2020年11月12日の今日、読売新聞のスポーツ欄相撲のページから引いた文章である。

その稿の全文は「新大関の正代に土。負傷した左足に力が入らず、大栄翔に一方的に突き出された。貴景勝は圧力ある攻めで阿武咲に完勝し、初日から4連勝。隆の勝は若隆景の注文にも動じず星を5分に戻したが、御嶽海は霧馬山の肩透かしに不覚。照ノ富士も初日から勝ちっ放し。」とある。

「御嶽海は霧馬山の肩透かしに不覚」まではすっと読めるが「照ノ富士も」がいけない。私の文章も拙いし他人のことをとやかく言う権利はないけれど、新聞の文章はプロが書いたもの。だから少なくても正確でなければならない。

記者の小沢理貴氏の名前はどのように読むのか判断に苦しむが、それはさておき「…不覚」までの前は言われている力士が良くない結果を残したことを言っている。

だが照ノ富士は初日から4連勝。「も」という言葉は前と同様のことを言っている筈なのにこれは不適切だ。そこは「は」とするべきではないだろうか。

「・・・御嶽海は霧馬山の肩透かしに不覚。照ノ富士初日から勝ちっ放し。」は「・・・御嶽海は霧馬山の肩透かしに不覚。照ノ富士初日から勝ちっ放し。」だろう。

読売新聞は朝日新聞に比較して文章が適切だ。1面から3面辺りまでは頂けない文章が多いがそれ以降のページでは気になるような文章がなかった。

だが今日のこの文章は頂けない。まるで朝日新聞だ。朝日の文章で不適切なのが多いのは例えば「美しい彼女の振る舞い・・・」などの形容詞の使い方だ。これでは彼女が美しいのか振る舞いが美しいのかその文章だけでは判然としない。前後の関わりから判断しなければならない。

もし振る舞いが美しいなら「美しい」という形容詞を彼女の前に持ってきてはいけない。「彼女の美しい振る舞い」としなければならないところだ。

明治には夏目漱石などが新聞社に雇用され文章を書いていた。彼らの書く文章は一般人の手本となり、時代が移り我々が若い頃もそうしていた。ラジオから流れる話し言葉や新聞の文章は全て極めて正確で美しいものだった。

だが時代は変わった。原因はアメリカからの文化を取り入れ過ぎでもあるし、最近ではコンピューターの使用法の不適切さも影響しているだろう。

コンピューターは単語を理解しても文章を理解することができない。だからいくらグーグルがアクセスする人のためになるようなサイトやブログを上位に持ってこようとしても成功はしないのだ。

新聞の文章がこんな有様であれば我々は何を正確な日本語として手本にできるのだろうか。残念ながらそれを見つけることができない。

では英語はどうだろうか。日本人に正確かつアメリカ人らしい英語を使えるかと自問しても「yes」という答えは出て来ない。

コロナ関連での政府の政策「GO TO」キャンペーンなど最たるものだ。「GO TO」の後には「EAT」「TRAVEL」が来るとされているが、「EAT」は良いとしても「TRAVEL」はおかしい。「GO ON TRAVEL」とすべきだと思う。

これらは和製英語だから仕方がないと言うならどうしてそんなことをしなければならないのかと反問したい。「行こうぜ」キャンペーンとかでは駄目だろうか。

PCR検査とは何の略か医師に訊いてみた。Pは「Poli」(「Poly」か)であると彼は知っていたがC やRはとうとう分からなかった。「感染検査」などではいけないらしいが何故だ。また新しい言葉を丸暗記しなければならない。

記者の小沢くんが適切な文章を書けなかったのは仕事に一杯一杯だったからだろう。彼もプロ。見直せば不適切なのは分かったはずだし、校正あるいは校閲係がいて見直せば訂正しただろう。

これはコンピューターの普及による競合過多が原因だ。どの企業も目一杯働いても利益が出難い状態になっている。競争は適度にして新しい事業を起こす努力とかをできないものだろうか。

こんな競争を全世界でやっていれば勝つ企業はだんだん少なくなり、最後には例えば「世界株式会社」などという唯一の超々巨大企業だけが世界に存在することにならないだろうか。

だがそういうことにはならないだろう。競争は行うが平和裏に共存共栄ができないからだ。社会はだんだん生き難くなった。働きたくない若者が増加して仕事の質は落ちるだろう。

マニュアル社会が現実化してマニュアルに書いてあること以外できない人が大半になるような気がする。

現に電話を受ける専門の会社が存在して電話に出て人はマニュアルに書いてあること以外こちらの要望に応えられなくなっている。

酒巻 修平

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