柿がなった

 庭に植えた柿の木が実を付けた。植えてから8年目で、文字通り「桃栗3年、柿8年、柚は9年の花盛り」を地で行った格好だ。

捥いで食べたがまあまあで毎年食べられるかと思うと楽しみが増えた感じで嬉しくなった。去年は20個ほどだった。

柿は成る年と成らない年があると聞いたので今年は期待しないでいたが、木が大きくなり増築した物置の屋根を越えて日当たりが良くなったと見えて50個ほども実を付けた。

実は5,6月ころから見え始め、だんだん赤みが増してくる。もうすぐ食べることができる。もうすぐだと時々見ては嬉しくなる。

だがいよいよ取ろうかとしていると鳥がやってきて一番甘いのから突く。だがどうも実の全ては食べない。それでその実を捥いで鳥の残りものを食べたがとても美味しい。

だが実はなるのが一斉で全ての実を取って勘定すると45個だった。それを3回くらいに別けて取った。

それを色んな人に上げようとしたがもらってくれる人がいない。自分もそんなに沢山は食べられないし、去年沢山食べたから飽きている。

折角8年も待ったのだからもう少し楽しみたいのだが、無理に食べさせようとしても嫌な顔をされる。

友達に片っ端から電話してもらってもらう方法もあるが、どうも面倒だし運送料をどうするかという問題も生じる。

あああ、何故こんなことになったのかと考えても始まらない。蜜柑と違って柿は毒性が少しはあってそんなに沢山食べることができないのかも知れない。

だから蜜柑の木を植えようとしていて止めた。これはどんなものでも一緒だ。茗荷は夏ころに一杯なるがもう素麺を食べるのも飽きた。いつだったかお中元を贈りたいという人を断ってきたが何度も言うので素麺だったら受けると失言してしまった。それが祟った。

素麺が5つも6つも来る。どうして日本人はこんなに虚礼が好きなのか、ほとほと呆れてしまう。

虚礼であってもこちらはお礼をしなければならない。電話だけでもするのが面倒だ。だが相手が仕入れ先などではない時はお返しをしなければならない。

私は虚礼が好きではないので、相手の好みや状況を考えて返礼品を選ぶ。これがまた面倒だ。もうお中元、お歳暮は止めて欲しいと願ってもそんな願いは聞いてもらえない。

柿よ、来年はあまり実を付けないで欲しい。でも0では寂しいので5個か10個にして欲しい。人間の我儘は止まることを知らない。

庭に何とか言う美しい山茶花が咲く。今ごろが見ごろであるが、最初咲いた時はあまりの美しさに感動したものだ。

だが木が大きくなり今は何十と花を付ける。そうなるとあまり見なくなる。どうしてだろうか。人には飽きるという面倒な脳の作用があるのか。

そうするとどんなに美しい人と結婚してもやがて飽きるのだろう。不細工な人と付き合いたいという理不尽な願いも起きてくるだろうか。

もっと話しを広げてお金はどうだろうか。ロックフェラーなど使いきれないお金を持っている人はお金に飽きているらしい。

何人かの大金持ちが一年に一度集まってお金を全く使わない生活を1週間ほどする催しをすると聞いた。

お金にも飽きるのだ。生活するのにかつかつなくらいあるのが丁度良いのではないか。そんな馬鹿なことを考える。

柿は一所懸命実を付けたのだろう。それを嫌がっては柿に気の毒だ。もらって欲しくはない私にもらわれ、実を付けたと思うと嫌味を言われる。柿は可哀そうだ。

酒巻 修平

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