神とは何か、存在するのか

 人には畏敬する存在がある。それは人であったり自然であったりする。それが原始時代の神だ。だが文化が勃興して人が物を考える余裕ができそれ相応に脳を活躍させる時間が経過すると、人による宗教が起こった。

 多少の時間の差はあるけれど、紀元0年を挟んで仏教、イスラム教、キリスト教などの宗教が創始された。宗教にも神や仏と言った概念が存在してが、それ以前の自然崇拝での神とは違う。

 自然は人に恵みをもたらしたが、逆に大災害をも与えた。それは人が制御できない自然現象であったが、どうしてそれが発生するのか、人の生活には影響を与えなくても精神を揺り動かす現象であった日食が何故、誰によって起こされたか。

 そのころの人は自身の生存を脅かすあるいは助ける存在としての自然現象が神のようなものだったろう。

 宗教が起こってからの神はまた違う。それは人の精神の在りように多大な影響を与え、それを畏敬する精神が神を使ったのではなかろうか。

 原始時代人は生存を目的として行動に終始したが、その生存がほぼ確保されるようになると今度は精神の安寧を祈った。

 他の動物と違って人は異常なほど大きく精密な脳を保持している。これが神の存在する前提になるのではないか。

 犬や猫には神はいない。敢えているとすると自分を飼ってくれる主人が神ではないだろうか。だが彼らはそんな意識はない。

 人は体という具体的な物質と精神という抽象的な働きという現象の総合体である。物質的に環境が人の生存が許されない状態では生存に大きな影響を及ぼす自然環境や現象が必要不可欠である。

 ナイル川の氾濫、台風、春の到来、食用動物の餌となる草の生育、肉食動物、自然の洞窟、有益なものも害のあるものも全て人の生存との関係では重大な意味を持つ。草食動物を捕って食料とし、それらの皮を防寒具としたろうが、時には熊やライオンに襲われ生存を奪われる。

 それら全てが当時の人の関心事であった。それらの存在をもたらすものに大きな畏敬の心を持ったことに違いない。

 それらが人の生存に大きな役割を果たさなくなると人は精神の安寧に心を砕くことになる。

 このころ人の関心は人そのものへと移った。戦争を起こし、人を不幸に陥れる人、自分たちを奴隷にする人、食料を独占的に取得する人。

 そういう人の精神を咎め、他人に益をもたらし、害の精神を阻止するのが宗教である。

 そこでの神は人の生存ではなく、精神の安寧をもたらしてくれる存在であったろう。それは大きな心であったし、深い慈悲の精神である。そのような心、精神をもたらすものが神である。

 時代が進むに従って人は精神というものの本質を知るようになった。有り余る物質生活をするようになると高邁な精神への導きはだんだんと影が薄くなり、それに取って変わったのがより多くの物質、すなわち富である。

 富は権力者の専有物であったが、それが産業革命あたりを境にして、富を獲得する知恵のあるものが富を独占するようになった。

 その知恵はどこからくるのか。生まれつきと言っても同じ家から知恵のないものもあるものも生まれる。

 何か崇高な普遍性があるのだ。それが神だ。神は人の生存を司り、精神の安寧をもたらし、富の獲得の才能をコントロールする無形の存在である。

 神を信じても信じなくても自分自身の心で自分の生存と精神の安寧、富の取得は可能である。

 神はむしろ自身の努力を推進している。「天は自ら助くる者を助く」。だが人は一人で生きていけない。おおらかで正しい精神と努力が自身の神であるのは疑う余地がない。

酒巻 修平

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