酒巻 修平の半生記 1

幼児期の記憶はある一日から始める。私は大阪市に生を享けたが、その日アメリカ軍による焼夷弾の投下により我が家も火災の危険があり、隣村に逃げた。家は区内にあったが隣はもう農村地帯で、そこに逃げて難を逃れようとしたのだ。私は母か伯母に手を引かれて転び転び、逃げた。着いたところは農家で、着くと大きなテーブルの上に山盛りの握り飯が大皿に上にあって、我々避難民に振舞ってくれた。握り飯は白米で、当時食べていたのは麦が大半を占めるようなものだったので、嬉しくて吃驚もした。その家の人は寛大で、近所の人と食べたが食べきれないほどあった。ありがたかった。

 後から聞くとその日には玉音放送があって、日本が戦争に敗北した日だった。でも私には玉音放送の記憶は全くない。子供にはそんな放送より白米の握り飯の方が印象に強かったのだろう。因みに玉音放送とは天皇陛下のお声即ち玉音で敗戦の詔勅がなされたと言うことだ。

 それから暫く私の記憶はなく、次のは小学校のプールの中に落ちていた焼夷弾の不発弾を小脇に抱えて突撃ごっこをしたことだ。随分危険なことと思われがちだが、一緒にその遊びをやっていた近所の子供で爆発事故にあって子はいなかった。考えれば当たり前で、上空から落とされても爆発しない欠陥焼夷弾が子供の遊びで爆発する訳がない。近所の道路にも爆弾が落ちた跡の穴がところどころ開いていた。

 次の記憶は小学校一年生まで飛ぶ。私は入学までに肺炎を二回も患ったので、入学式に出られなかった。最初の授業で先生がおっしゃったことは「最近頭が痛いと困っていたが、調べてみたら太って今まで使用していた眼鏡がきつくなり、それが顔を締め付けていたからだ」。私は何故先生が小学校一年生にそんなことをおっしゃったのか今でも疑問であるくらいだからよほど印象に残った言葉だったのだろう。

 小学校はただ楽しくて夢中で遊んだけれど、卒業するまでが長くていつまでも続くように思った。一度先生にビンタをもらったことがあるのだが、いまだにそのビンタの理由が思い当たらない。ところで母は長唄の歌手で当時NHKの専属をしていて、自分では日本の女の歌手では一番だと自慢していた。父は母の弟子だった。母は16歳のころから弟子を取り、一家6人を養っていた女豪傑だった。だから伯母が私たち子供の面倒をみていたが、この人は母とは正反対の人で、子供特に私を猫可愛がりをした。だから私にはその気性が乗り移った。母は私が喘息で歩くのも辛いときでも私を兄に預け、「私は今から飲みに行く」といって病身の私を残してさっさとどこかに消えるような人だった。私が先生にビンタをもらったのを伯母は偶然見て、学校にねじ込み大騒ぎになって、その先生は一時仕事を干された。私の目で見ても頭の悪そうな先生だった。

 もう一人の先生は生徒に罰を与えるとき、気を付けと言って手を横に下げて待たせる。それで頬に両手でパチンと叩くのだ。しかし私たちにはこんなことは日常茶飯事で嫌ではなかった。4年生の先生は女の人で、ある授業のとき私が「どうして蠅のことをはいと言うのですか」と質問した。「はい」は大阪の方言で蠅のことを言うのだが、その先生は後で答えてあげると言ってすぐには私の質問に答えなかった。授業が終わりそうになったので、再度その質問をすると「君はしつこい」と叱られた。その時もショックだったが、今考えると先生は「はい」は「蠅」の方言または慣用句だということを思いつかなかったのだと思われる。

 中学生になっても私の喘息は治らず小児喘息から本格的な喘息に移行した。だから学校は一年で30日以上休んでいた。今だったら簡単に症状を緩和できる医薬品がある。それがそのころあれば私の人生は変わっていたかも知れない。当時母は父と別れていて、我々の家計はいつも火の車だったので、私は新聞配達のアルバイトをすることになった。放し飼いの犬に噛まれたりしたし、喘息の発作が出ているときも休めないので、大変だったが、良い人もいて、私がまだ少年だからお菓子や食べ物をもらってこともあった。初めてもらって給金は2000円くらいだったと記憶している。その給金で中古の自転車を買おうとしたら伯母が買って来て上げると言うのでお金を渡したらすぐに自転車を持って来てくれた。あとで分かったのだが、その自転車の価格は1800円くらいだったので、やられたと思った。

 二年生の英語の時間で私は「寝る」とは英語で何と言うのかという質問を受けた。新聞配達をしていた私は毎日3時ころ起きて4時には配達所に行かなければならないので、授業中はいつも寝ていた。「寝る」という単語ははsleepと言うらしくそれは前回の授業で習ったから答えられなければならないのだが、授業と聞いていなかった私は答えられない。苦し紛れに「go to bed」だと知っている単語を並べて答えると先生は暫く黙っていたが、そのうち偉いと言って髭面を私の顔にくっ付けて褒めてくれた。それで私はいっぺんに英語が好きになり、英語だけは勉強するようになった。三年生になると違う先生が英語の授業を受け持ったが、私は英語が得意で、色々と質問をする。ある日その先生に教員室に呼ばれ(生徒にとって職員室は怖いところだった)、椅子に座るように私に言った。私は悪いことをしてないのに何故怒られるのかと戦々恐々としていると先生は「酒巻、あのな、俺は大学でラグビーばかりやっていたから英文科を出たけれど、英語はさっぱり分からない。もうこれから質問をするな。その代わり全部5をやる」と契約を申し出た。私は叱られないと分かってその契約を了承した。だから三年生の英語の成績はオール5だ。私の家は貧乏だったので、参考書を買ってもらえない。先生は教科書と参考書に基づいて授業をしているものだから無手勝流の私の質問に面食らったのだろう。大学を出てからその先生の家に遊びにいったらよくビールを御馳走してくれた。当時は面白い先生が沢山いた。

酒巻 修平

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