平成29年2月12日-極寒

 とても寒い。物を書いている足元がじんじんとする。いっそ散歩にでも出て体を動かそうと思った。しかし外も寒い。

 とは言えもう春は近く、週によっては4月の陽気であると天気予報が言っている日々もある。

 そんな時には50年前のある日のことを思い出す。私はある少女に深い恋をしていた。

 その少女のお父さんとは昆虫採集の仲間で、それが縁で家へ遊びに行くようになった。その少女はそのころ15歳くらいだったと思う。

 年が経ち、少女が大学を受験するというので、私は家庭教師に雇われた。一生懸命教えたが少女はその年、受験に失敗し、浪人ならぬ浪女になった。

 私は大阪に住んでいたが、東京に転勤になり少女の家庭教師も止めた。しかし私の後任の家庭教師の女性は人柄も良く美人だったそうだ。教え方も上手だったのか、少女は翌年見事志望大学に受かった。

 少女が大学に入ってからも、私は大阪へ出張する度に少女の家を訪問し、宿泊させてもらった。浮いた宿泊費でその少女を食事に誘っているうちに好きになってしまった。

 自分の心の内を打ち明けたのは汚い小さな酒場でであった。少女はそんなことに慣れていないのか、生真面目な性格なのか、私の告白に対して「私はどうすればいいのか」とそれこそ思わぬ言葉を使い尋ねた。

 咄嗟に私は詰まり「僕が言ったことを覚えておいて欲しい」と言うのが精一杯だった。あるいは二人きりになれるところへ行っても良いということだったのか、もうその真意は測るべくもない。

 それから少年ほど年の若い私とまだ少女の域を出ていない彼女の交際が始まった。東京へ帰っても考えるのは彼女のことばかり。夢に彼女が出てくると恋心はいや増した。

 彼女の言葉付きは正確で美しく、いつも私を気遣ってくれる。会って別れるときは、いつも、私の姿が見えなくなるまで、道の片隅に佇んで見送ってくれた。私は時々振り返ったが、いつまでも彼女は立っていた。彼女以外に私には女性が見えなくなった。彼女は私だけの女神になった。

 しかし問題があった。二人は遠距離に離れているということだ。世にはよくある話だが、そのうち彼女のお母さんは交際に反対をし出した。私が喘息持ちの病身で、性格が悪かったからだろう。

 そんな間もお母さんは私に盛んに見合いを勧め、私は仕方なく何度か勧めに従った。しかし盲目になっていた私はどんな女性と会っても魅力を感じない。全ての見合い相手を断った。お母さんは自分の娘との交際は許さないが、他人の娘だと良いのかと狡さを見た。

 その彼女と最後に会ったのは春の嵐が吹き荒れる日だった。心浮き立つような日に彼女から「もう当分会えない」と言われた。

 貧乏は我慢する能力がないと乗り越えられない。私は諦めることを今までの生活で教え込まれていた。それで彼女の言った「当分」という言葉を考えたが、彼女の言葉は私を気遣ってのものだと気が付き、それからは諦める切ない努力を続けた。

 それから50年、彼女も老女になっているだろうが、彼女は今も20歳のままだ。

酒巻 修平

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