スランプ(失意の私)

 ほぼ毎年12月にはサントリーホールでクラシックの曲を2曲歌う。一曲はカンツォーネで、後一曲はオペラのアリアにしている。テノールだ。

 私の歌をかなり褒めてくれた書き込みもあったり、一曲当たり1万円の報酬をもらうこともある。

 その年のゲネプロ(出演者の合同練習)では相当出来が良く本番でむしろ力を発揮するタイプの私は自信たっぷりだった。

 ところが本番の日、私は満足な声が一声も出ず、大勢呼んだお客さんの前で大恥をかいた。どのように帰宅したか覚えていないほどの失意のどん底に落ちたのだ。

 本番での出来が悪かったのは何か理由がある筈だと考えた。その失敗を跳ね返すべく、毎日発声を考え猛烈に練習した。

 息の吸い方、息を出すときのアタックの場所、喉構え、共鳴の場所、方法、喉の開き方。考えられることは全て試した。

 しかし本番のあくる日、練習をしても治らない。むしろ少しまた悪くなっている。焦る。次の日も練習に打ち込んだ。良かった時の発声方法を思い出しながら、試す。駄目だった。

 毎日毎日練習に明け暮れた。しかしやればやるほど発声は悪くなり、中音もままならなくなってきた。どんなスポーツ選手でもスランプに陥ることがあると聞いた。その時はそんなものかと思った程度だったが、自身に同じことが起こると思ったより心の傷が深いのを知った。

 焦れば焦るほど声はおかしくなり、到頭話し声もガラガラになってきた。人と話すのも喉が辛い。でも練習は続けた。しかし声は一向に良くならない。以前良かったころの演奏会の録音を聞くと、あんなに良い声で歌っていたのだと更に落ち込む。

 他人に聞きとりにくい声になってきたとき、自分は無理をして、年も若くないので声を痛めたのではないかと考えるようになった。それまでは他の歌手が練習時間を短くして声を保っているのだと聞いて、冷笑したことも多かった。

 とうとう声が全く出なくなった。泣きたい。喚きたい。あの美しい声の持ち主はもういなくなったのだと悲嘆に暮れ、人生を生きる意味もなくなった。大げさと思うだろうが、これが芸術家(私がそうだとは言っている訳ではない)の心情だ。

 もう歌は止めよう。別の楽しみを見つけよう。山に散歩に行き、汗を流すと山の大きさを感じることができた。美しい山草が咲いている。人生の生き方は色々だと自分の小ささを思い知らされた。

 3か月ほどそんなことをしていたが、風呂に入っているとき昔習慣だった歌が自然に出て来た。美しい声が出て吃驚して、風呂を出てから本格的に練習をした。

 声は元に戻っていた。急遽次回の演奏会に出演をすることにした。本番では自己ベストで歌うことができ、大きな拍手をもらい、発声を褒められた。

 精神は肉体を制御している。日ごろそう信じている自分がどうしてその考えを思い起こさなかったのか。なんともだらしのない話だが、精神も心も働き過ぎると疲れるのだ。ストレスを解消しようと努力するのは脳を最大に酷使することで、脳(精神、心)はへとへとだ。今度からストレスになるとそれを真剣に悩むのを止そうと決心した。

酒巻 修平

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