宗教

 宗教は精神に作用する。心を穏やかにし、他人に親切にし、大きな心を持つなど心をより良い状態にするのが目的だ。

 しかしどうも宗教は身体のことも気にかけていると思う。宗教の創始者は偉人で天才だから私が解説するのは無理だけれど、私にも考える自由はある。

 宗教が身体のことを考えていると思うのはバイブルには健康法が書いてあるし、仏教は早寝、早起き、適度な運動、呼吸法などを説いているからだ。しかしやはり心のことを考えるのが宗教の第一義のようだ。

 仏教が精神に求めるものは「許す」心ではないだろうか。悪人も成仏できると説き、和を尊ぶのはこの許す心からきているように思われる。勿論一言で許すことが仏教の教えだとは言えない。輪廻転生を考え、生きることの大切さを教えてもいる。

私はほぼ無神論者だが、それは宗教を無視するということではない。亡くなった両親を時々思い浮かべては私を生んでくれたことに感謝する。生んでくれたからこそ、楽しみ、悩み、苦しみ、愛することができるのだと思う。仏教は生を大切にするように諭しているようだ。

キリスト教は自由を第一義にしているのではないだろうか。それは当時の情勢からの圧力に対して持つ一種の抵抗からきたかも知れない。言論の自由、男性同士の結婚、銃を持つ自由、アメリカ以外の外国のことをあまり知らない私はそのように考え付いた。

時々自分が無能に生まれついていたら、どうなっていたのだろうかと考えることがある。食物もなく、住む家も家族もいない。そんな状況は悲惨だけれど、生まれついての能力を呪っても仕方がない。

逆にアラブの王様に生まれついたらどうだったのだろう。毎日嫌というほどの贅沢をし、後宮に何千人もの女を侍らせる。そんな人生は嫌だが、それも運命だ。しかし自分は前世でどんな良いことをした訳ではない。それは神の配材だ。

そう考えると能力が有って富める人は貧しい人に自分の富の幾ばくかを与えて神に感謝をすべきではないのか。そんなことを考えたことがあった。これはイスラムの教えではないのだろうか。

宗教を創始した天才たちが脳髄を絞ってやっと辿り着いた心の在り方を平凡な自分が総括することができる筈もないが、宗教の違いによってその国や人たちの行動様式を推測することができる。これはビジネスをやっていく上でとても役に立つアプローチである。

そんな不遜な宗教へのアプローチをする私をゴータマシッダルータ、ヨシュア、ムハンマドの各神徒様、お許し下さい。

しかし本当に神という存在はあるのだろうか。神という言葉に当てられたのは無形の偉大なる存在かも知れないし、宇宙の法則から導き出される深淵な思想から発生した心の中だけにあるものかも知れない。あるいは全ての人の心を全部足してその大きく、美しく、有能で、慈悲心のみを抽出した人々の心の総合体であるのか。しかし太陽系が消滅したあとも神はまだ存在するのか。どうも神は人の心の中にのみ存在するもののように思う。

酒巻 修平

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