人は美を如何に感じるか

 目がダビンチの絵を見たり、真っ赤な夕焼けが目に入ったとき人は美しいと感じる。耳は例えばバッハの「アリア - G線上のアリア」を聞けば美しいメロディーと思うだろう。

 では美味しそうな匂いを嗅いだ時はどうだろうか。涎が出ることうけおいだが、その感覚は美を感じているのではない。大好物の物を食べても美味しいだけで、これも美とは関係がない。肌に快い春風が当たってもやはり美とは言えない。

 どうも人の五感の中で、美を感じるのは目と耳だけの独占作用だと思える。そうすると目はどのような物、耳はどんな音を聞けばそれらを美と認識するのであろうか。

 物が発する情報には波長、波形など光と音の発する波がある。私はこの波の在り方と美に相互関係があるように思える。波形の美しさとそのコンビネーションの美、波長と相対する隣の波長の関係、そんなものが美を認識するもとのように考えている。

 光は波の一種とも言われている(実際の光の定義はまだ定まっているかどうかは疑問だが)。その波は1秒間に約30万キロ進む。音は気温にもよるが毎秒340メーター程度の速さで伝わる。

 美は体内に飛び込んできた波の状態のうち、予め脳内に組み込まれた波の美の形式に合致するか近いものを脳が感知したときに認識するらしい。しかし犬にはこの感覚がない。人の脳は犬とは比べ物にならないほど発達して、美を認識する能力を獲得した。

 人において美を認識する意味があるのだろうか。美を感じなくても生きるのに支障はない筈だ。それなのにそんな余分な能力が備わっているのは蛇足ではないか。そんな疑問が生まれて当然だ。

 人が美を感じるとどうなるのだろうか。心が浮かれて騒ぎたくなるのか。それとも陰鬱になり、心がメランコリックに陥るのか。どちらでもないだろう。心に優しい思いが生まれ、精神も落ち着く。

 生物学的に考察するとそれは自律神経のうちの交感神経を抑制しているか、副交感神経を活発にさせているかだ。原始の人たちが牛の壁画を描き、神への祈りを捧げる。そんな行為が絶えざる戦闘や動物との抗争から帰った人たちに安らぎをもたらしたことは想像に難くない。

 子供に絶えず美に接触する機会を与えるとどうだろうか。美に触れる心の余裕は心の貧困からは生まれないだろうが、そこは何とでもなる。

 もうすぐ春爛漫の季節がやってくる。自身の庭にはなくても花の美を鑑賞する機会はいくらでもある。野に出よう。音楽を聞こう。美しい言葉を話そう、それらを子供に教えよう。テレビもそうして欲しい。いじめが少なくなるかも知れない。

酒巻 修平

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です